
元々はただの漁村だった地
かつて鎌倉は、海に面したごく普通の漁村のひとつにすぎませんでした。
それが、武家政権の誕生とともに政治・宗教・文化の中心地となり、寺社仏閣の建立や、禅文化の広まり、武士文化の根づきといった数々の積み重ねが、今日の「歴史あるまち・鎌倉」のイメージを形づくってきたものと思います。
けれど、その“古都”の風景は、現代のまちの姿の中に、どれほど存在しているでしょうか。鎌倉が本質的な意味で再び、「鎌倉らしさ」を追求し、“過去から未来へとつながる文化の地”として在り続けるためには、今この時代にふさわしいかたちで、その価値を見つめ直すことが求められているのかもしれません。
古都鎌倉への疑問
“古都”の風景はどこにあるのか?
私たちはふと、こんな疑問を抱くことがあります。
「今の鎌倉に、“古都”らしい風景は本当にあるのだろうか?」
“古都・鎌倉”という言葉には、誰もがある種のイメージを思い浮かべるはずです。静かな石畳、歴史を感じさせる佇まい、時の流れを包み込むような空気感——。武家政権の拠点として政治・宗教・文化の中心地となった歴史、数多くの寺社仏閣。そうした背景が、“歴史のまち・鎌倉”というブランドを築いてきたのは確かです。

しかし、実際に鎌倉駅に降り立ち、東口のロータリーを出て最初に目にするのは、バスターミナルの喧騒、雑居ビルが並ぶ商業エリア、全国どこでも見かけるチェーン店の看板。
西口に回っても住宅街の風景が広がり、観光ガイドで語られるような「古都の空気」は、少し探さなければ出会えないのが現実です。どこか、観光と日常が混在し、都市化が進んだ“まち”としての鎌倉の姿が、そこにはあります。
「古都」と呼ばれるまちに、本当に“古都らしさ”はあるのか。
その言葉と、目の前に広がる景観との間に、私たちは明確なギャップを感じました。あるはずのものが、そこに見えない——そんな物足りなさと、静かな空白です。
鎌倉に対して“歴史あるまち”という印象を抱く人が多いのは事実です。けれど、その風景が現代の私たちの目に、具体的なかたちとして存在しているかどうかは、まったく別の話です。
その疑問こそが、旧加賀谷邸の再生プロジェクトを動かす原点となりました。
「残すべきものとは何か」「まちの記憶をどう未来につなぐか」——それを問い続けることから、私たちの挑戦は始まりました。
文化なき街は、
いずれ野に還る
まちは自然に残るものではありません。文化を維持し、まちの記憶を繋ぎとめようとする意志と行動がなければ、かつての「古都」とて、やがてただの“かつてのまち”になってしまいます。都市や街の栄枯盛衰など、長い歴史の中で見ればほんの一瞬の浮き沈みに過ぎません。
ここ100年で姿を変えた都市など、いわば「仮の街」にすぎないのです。そして実際に今、そうした仮の街は全国各地で急速にその存在感を失い始めています。
競争力を失い、文化を持たない都市に、未来はない。私たちはそう信じています。
たとえば鎌倉も、寺社は点在するものの、街並みに文化の連続性を感じるかと言われれば、正直なところ疑問が残ります。そこに私たちは空白を見出しました。「古都」と呼ばれる街でさえ、何もしなければ、その風景は時代の波に飲み込まれていく。だからこそ「古都」をつくるという意志が必要なのです。



活用の視点が、
保存を可能にする
私たちもまた、民間企業として、理念や文化的意義だけでは事業を継続できない立場にあります。文化財を長期にわたり保存するためには、それを支えるだけの収益構造を確立する必要があります。文化庁が近年提唱する「文化資源の高付加価値化」にもあるように、文化財は単に保存するだけでなく、地域の人々や観光客とその魅力を“共有する場”として活用されることが、結果として保存の持続可能性を高めるとされています。
旧加賀谷邸のように、文化的価値をもつ建物を活用する際も、私たちは立地や用途特性を踏まえ、飲食店としての再生がもっとも有効であると判断しました。
とりわけ鎌倉のように観光需要に繁閑差がある地域では、季節や曜日に左右されず安定した運営を行うために、地域に根ざしつつ話題性や集客力のある機能を併設することが望ましいと考えました。これは単なる収益性の追求ではなく、文化財の自立性と持続性を確保するための現実的な手段であると私たちは捉えています。
“いま”が、未来の歴史になる
もっと言えば、私たちはしばしば、「歴史」を過去ものとして捉えがちですが、歴史はまさにこの瞬間にも作られているものであり、私たち自身も歴史の一部であり当事者なのです。私たちがどのような選択し、どのような行動を取るかが、将来の世代が目にする鎌倉の風景を決定づけるのです。それでも、地域住民の方々や行政の中には、文化財の保全に対してどこか一歩引いた姿勢があるように感じることがあります。「歴史が自然に残っていく」という前提が、無意識に働いているのかもしれません。けれど、まちの未来は、誰かが責任を持って築いていくものであり、今を生きる私たちが、その当事者であることを忘れてはならないのです。
犀北館の再開発に取り組むときも、私たちはこう言ってきました。
「歴史は待っていれば築かれるものではない。自ら手を伸ばし、未来に残るものとして“作る”べきだ」と。文化を維持し、深め、次の世代へつなごうとする街は、生き残る可能性がある。
だからこそ、私たちは、ただ時流に乗る事業ではなく、歴史に耐えうるものを創るべきだと信じています。